背中心というのは、着物でよく使われる言葉ですね。
着付けの時には、この背中心がちゃんと背中に来ているのか、確認をします。

そこで、着物は、サイズを見るとき、裄丈といって背中心から袖の先までの長さを見るわけです。
これが、洋服になりますと、肩幅と袖丈というサイズに分かれると思います。
数字だけ追いかけますと、一見どうでも良い話で、結果的には一緒のことでしょうということになるわけです。

ところが、文化的には、全然違う観点がそこにあるわけです。

例えば、肩幅ということから中心を出しますと、当然、計算という科学が入ってきます。つまり、肩幅を2で割ったところが中心だという考え方ですね。なぜ科学というわざわざまどろっこしい言葉を使ったといいますと、この科学という観点が、着物という文化的観点と違うところなのです。どういうことかと言いますと、つまり科学では、物体は均一であることを前提としますので、個体に左右差がないと考えるわけです。

それに対して、着物などにおける中心に対する考え方ですが、均等という前提はなく、むしろ不均一であることが前提としてあるわけです。ですから、中心とは、この場合、着物の背中心ですが、左という世界と右という世界があって、その境界線的な存在であるということです。

礼法でも、襖を開けたりするときに、一度に手を使って全部を開けずに、途中で、手を変えたりします。これは、単に左手は、右の領域にはいかないし、右手も左の領域には、入らないようにしているわけです。

殺陣とかしておりますと、よくある質問に、どうして刀を左に差すのですか?左利きの人なら、右に差したほうが、合理的ですよね?だめなんですか?という質問ですね。だめですよというと、マイノリティをつぶして、強制的に利き腕をかえてしまう日本の全体主義だ、なんて、感じるかたもいらっしゃいますが、笑。

まず合理的って、間違っても解決の糸口にはなりません。合理を追求するひとは、必ず文化とは縁が切れていきます。笑。

つまり、刀は左という世界に置くことが、左の感覚として、とても集中できると感じてきたわけです。ですから、刀は左に差すわけですね。左に刀を差すことは、利き腕と関係がなく、左という感覚世界の話というわけです。左利きというのは、精神が左集中しているという状態のことをさしているわけで、身体の集中とは、関係がないと考えるわけです。

そう言っても、にわかには、信じられないと思いますので、とりあえず左利きの人には、心臓が右利きの人と位置が違って右にあるなら、右に差してもよいけど、左に心臓があるなら、左に差してくださいと説明します。笑。そうすると、しょうがなく承服してくださりますね。笑

この背中心が、肩幅の真ん中なのか、右と左の境界線なのかという思想の違いは、古武道をしますとよくわかります。

例えば撞木の型というのがありますが、こんな感じで構えます。

これを上から見ますと

こんな感じになるわけですが、剣道とかではもう、だめな型になります。
なぜ、だめかといえば、肩幅で中心をとるようになったからです。(ちょっと言いすぎです)
つまり、肩幅の半分が中心だとすると、肩幅が問題ですので、この場合、正面をむいていません。
ですから、前にいる敵に対して、踏み込みづらくなります。剣道は直進しかしませんから、この型は都合がわるいわけです。
でも、これを左と右の境界線ととれば、肩の向きは関係ありません。左の領域が下がって、右の領域が前に少しでている状態ですから、中心線としては、ちゃんと正面をむいているわけです。むしろ突きなどは、この撞木の型のが、圧倒的に決まります。たぶん。笑

そうやって思いますと、剣道や柔道、弓道と背中心のないものが、道着として使われていませんか?

ちょっと心配なところです。

着物は、無意識の世界で、身体に働きかけていることが多くあります。不思議な感じもしますが、これが文化の正体でもあるのです。文化の本質はこうした、無意識の世界のお話なのです。

現代は、科学だけが信用に値するとメルケル首相も言うように、文化を失う傾向にあります、もちろん、それは、皆様が、自分で判断して決めていくことです。ただ、ネット上にも情報がなくなる前に、ちょっとづつ書き残してみる?

着物からだより(コラム)