しみいる

閑さや岩にしみ入る蝉の声

とは、松尾芭蕉の山寺でうたった有名な句ですね。(写真は、山寺とは全然ちがう阿蘇山の神社です。)
解釈は、みなさん俳句を科学してしまうので、あほらしくて聞いてられませんが、今回、所作として使いたいのは、しみいるという感覚ですね。
実は、この感覚は所作の全般に言えることだと思います。どういうことかと言いますと、岩にしみいることは、大丈夫ですけど、岩を砕いて中に、入っていくわけではないということです。岩を砕けば、破壊してしまいますので、何かしら、よろしくないわけです。


例えば、刀を正眼に構えていて、そこから上段へ刀を振り上げるとします。このとき、振り上げるんだから手を上に上げていけばいいんでしょ、では、所作にならない訳です。その行為は、岩を砕いていくのと同じで、しみいって無いわけです。相手は、空気ですから、気軽に動けるわけですが、それでも、やはり空気の中の隙間みたいなものを探して、しみいるように手を上げていくわけです。やってみたら、体感できると思いますが、岩にしみいるように、手を上げれば、とても閑かで、身体がしまってくると思います。是非、やってみてください。

よく、刃筋に従えといいますが、刃によって空気を切り裂くのではなく、そこにしか空気の隙間がないところに刃を通すというわけです。開拓者には、なってはならないわけです。山伏が山でホラ貝を吹くのも、山のなかにしみいるホラ貝の音を聞いて、裂け目をみつけそこを歩いていくことで、山を汚すこと無く歩くわけです。現代人の好きな、フロンティア精神とか、ポジティブにイニシアチブをとるとか、所作の世界では、百害あって一利なし?笑

意思が先に立てば、身体はついてこないが、意思を自然に任せれば、身体がよりそってくるので、その後に意思がついていくと良いよ、という感じな、わけです。

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