着物と洋服との違いは、何だろうって考えてみる
まず、身体との関係性があげられると思います

洋服の根本は、機能性の追求だと思います。人間が動く、その動きを邪魔しないこと、または、動きをアシストすること。その目指すところは、裸と同等であることだと思います。ダンサーや、スポーツ選手、一部のファッションモデルの衣装など、限りなく着ていて着ていないような状態をつくりあげているように、見えます。スーツにしても、シャツにしてもオートクチュール、つまりサイズを測って、自分自身に合わせたものを着るわけです。その考えは、着物にももちろんあります。プレタはださい(つまり既製サイズのこと)、本当の着物をきるなら、ちゃんとサイズを合わせて着るべきであると言われています。そのあたりのことは、難しい問題ですね。今回はそのお話は、抜きにしておきます。

要するに洋服は、あくまでも、生きていくためのツール(道具)として、よりよいものであることを目指しているわけです。

では、それに対して、着物はいったい、どういう立ち位置にあるのでしょうか?機能性の話では、明らかに洋服より劣ると思われます。それは、進化することをかたくなに拒んできたのでは?と思われるほどです。なででしょうか?
ただ、最近は、和洋折衷といいますか、洋服と合わせる着物の着方もありますから、どんどん型が崩れて、記号化されていくのかもしれませんね。

そういう意味からも、完全に合理化と進化が完了にするまえに、この前近代の着物の特性について、考えてみる価値はあるのかなと思います。

動きの制約
第一に、洋服に比べたら、着物は明らかに動きに対して、制約が生まれます。昔、中国の中央技劇学院に訪問したときに、着物を着てみたいという学生さんに試しに着てもらったことがあるのですが、(SAYURIという映画で、チャンツィイーさんが日本人役で、主役をやったこともありましたので、日本の事は興味はあるみたいです)まず、第一感想は、動けないということでした。笑

これは、所作の違いもあるのですが、日本はだいたい面で動くことが多いのですが、中国は、円を描くことが多いのかな?お金や、公園も円と表現していますよね。英語は、公園はスクエアですからね。発想がすでに違いますね。

つまり、着物は、もともとの日本の所作に合っているもので、それ以外の動きには、制限を加えるような機能があるのかもしれません。

私たちは、生まれた時から、すっかり西洋的な生活様式で育ちました。ですから、着物を着たときに窮屈だと感じるのは、それだけ、私たちの基本的な動きが変化してきたわけですね。

こうした現象を捉えて、着物が進化すべきだと考えるのが合理主義で、西洋的な考えになります。逆に、私たちの動きを見つめ直すきっかけを提供してくれていると考えるのが、日本的な考え方になるわけです。

間を作りだす着物
着物は、たたむとわかりますが、すっかり平面的なものです。対して、洋服はどんどん立体的になっています。身体の形によりフィットしようとしているわけです。人間の身体は、もちろん、平面ではありません。ですから、着物着れば、そこには、隙間が出来上がるわけです。つまり、この隙間が大切なわけですね。間がないことを間抜けと言うように、日本では、この間がとても、大切なのです。

じゃあ、間って、なぜ大切なの?という問題は、要は、文化のお話になるわけですが、実際に着物を着て、動いてみて、一緒に考えてみましょうというお話です。笑。文化は、知識で出来上がっているのではなく、どちらかといえば、体験からくる知恵に近いものだと思われます。

ここまで、読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

着物からだより