日本文化と身体感覚

日本は島国であったこともあり、海外の文化の影響を受けることが少なく、独自の文化を創り上げてきました。

その独自性は、グローバル化がすすむ現代においても、色濃く残されている分野は、確かにあります。ただ、全体として文化の影響力は、昨今、急速に失いつつあることも事実であります。

文化は、一度失なってしまうと、二度と再生することはできませんし、それらを理解するための手がりも、同時に失なわれてしまうことが、過去の経験から、わかっています。

私は、文化という存在は、豊かさを享受するものであると同時に、継承する存在でもあると考えています。SDG’sが叫ばれるなか、文化においても、自分たちだけが楽しむのではなく、後生の人たちにも、また文化を楽しめるように、継承することの重要性も同時に知っていただけたらと思っております。

そこで、現代において、日本文化の継承の難しさは、どこにあるのかと考えますと。それは、日本文化を成り立たせている要素の中に、科学的な根拠もなく何ら合理性も見いだせない、しかも可視化が困難なものばかりであるということがあげられると思います。

では、日本文化は、なんの根拠もなく、ただ創り上げてきたのかと言いますと、そうではありません。そこには、ちゃんとした、「理」があるわけです。ただ、その「理」が、現代の科学では、説明ができないもの、つまりは、進歩のために捨てられてしまった分野、お金にもならないので、考えることをやめてしまった分野に属してしまったわけです。そこから、文化と科学は、相反する存在として、その立ち位置を探すにも難しい舵取りを迫られ、科学の進歩が早い現在、日本文化は消滅の危機も加速して、迎えているというわけです。

前置きが長くなりましたが、では、日本文化の「理」とは、何か?と考えれば、それは、身体感覚であるとお答えします。つまり、身体感覚が佳いと感じられること、そしてこの「佳いと感じるもの」、「佳いと感じること」の共有を試みて、みんなが、それに共感共有した結果が、日本文化になっていったと考えられる訳です。おのおのが佳いと思ったことではなく、多くの人々が、同時に佳いと思えることを追求して、「技」と呼ばれるものを創り上げてきたわけです。

昔の、達人や職人さんたちが、よく出してくる言葉に、「無」という言葉があります。これは、そういう境地があると言っているのではなく、佳いの共有共感のために、自分という主格を喪失させることを、まず目指していたからだと思います。

例えば、「自己」という言葉がありますが、この場合の自は、自分の自ではなく、自然の自なわけで、つまりは、自然の中の己という意味です。己は消して、自然の中に生き、自然を規範として、自己を確立させるという意味です。

そして、文化も同じように、自然を規範とするわけですが、自分の中にある自然とは、どんなものがあるのかと考えたときに出てきたものが、身体感覚であったというわけです。しかし、あれ?と思う方もいるかもしれません。なぜなら、身体感覚は、自然というよりは、むしろ自分の感覚のことでしょう?と普通は思うからですね。そうなんです。感覚には、自分側に属する感覚と、どちらかといえば、自然に属する感覚の二つがあるというわけです。

ち複雑に複雑になってきてしまいましたね。

では、つぎに、この二つあるという身体感覚についてお話させていただきます。