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3月8日に経産産業省から、2020年東京オリンピックに向けて、
クールジャパン商材・サービスの根幹となる
「感性」や「価値観」を国内外に発信するためのコンセプトブックが発表されました。

日本のものづくり

「道具」は、漢字で「道を具(そな)える」と書く。日本人にとっての道具は、単なるモノではなく、人に使われ続け、感性を磨くためにある。終わりのない”道”の追求・・・それが、日本の道具であり、だからこそ、手間と時間を掛け、生み出されるのだ。

有田、瀬戸、備前・・・日本は世界有数のうつわ大国
日本ほど、うつわの種類が豊富で、全国に産地が広がる国は、ほかにないだろう。原料である土や石、釉薬(ゆうやく)、つくり方、用途によって、その姿は千変万化する。伝統的な技術を受け継ぎながら、新たな挑戦を続ける現代作家も多い。世界が認める日本料理の盛つけの美も、このうつわがあってはじめて完成するものだ。うつわにのせて料理が完成するように、うつわもまた、使い手が使うことで完成する。この考え方は、唐津焼の「つくり手八分、使い手二分」という言葉にも残っている。「つくり手だけで完結しない」という価値観は、日本のものづくりの特徴なのだ。

繊細な手仕事、職人技が世界一の品質を誇る
全国各地、色とりどりの織物が伝わる中で、木綿糸を染め上げ、繊細な縞を織り出すのが唐桟織(とうざんおり)。鎖国で外来品が手に入らず、質素倹約の命が下った江戸時代、庶民でも絹の雰囲気が味わえるとあり、流行した。縞模様は、世界共通のストライプのようだが、手仕事ならではの風合いが温かい。また藍色をベースにした色合いは、原液を口に含み、味覚によって配合するという。しかも、この技術は、一子相伝。繊細な色彩感覚と技術が、大切に受け継がれている。

世界に誇る燕三条の金属加工
「燕三条でつくれない金物はない」-産地の職人が誇りをもって語る、金属加工技術。「燕三条」は、新潟県の三条市と燕市を合わせた呼び名だ。小規模な企業が密集した地域で、伝統を守りつつ、多彩かつ革新的な製品を生み出している。その地盤ができたのは江戸時代で、「千年もつ」と評された和釘の鍛造で栄えた、和釘の需要が減ると、三条は刃物鍛冶の技術を高め、燕は金属加工に注力した。その三条と燕の力が合わさることで、他の追随を許さないものづくりが誕生したのだ。たとえば金属洋食器は、国内シェアは90%以上。ノーベル賞授与式の晩さん会でも使われるほど、海外での評価も高い。

日本人らしさとは、自然観にあり

自然と一体化しようとする「自然観」、多様な「美意識」、そして「身体感覚」。多角的な観点から考えることで、日本人が見えてくる。

1.自然との共生・リスペクト
「日本人らしさ」とは何だろう?その核をかたちづくっているのは、日本人独特の自然観ではないだろうか。日本は、四方を海に囲まれた島国であり、山国でもある。南北に長く、四季に富んだ温暖な気候、豊富な水資源、山海の幸・・・・、自然は日本人に、さまざまな恵みを与えてきた。一方で台風、洪水、豪雪、火山、そして地震など、過酷な試練も課してきた。その中で生まれたのが、自然を畏怖しながらも、自然に自らも溶け込ませ、共生しようとする自然観だ。自然=克服すべき対象とみなした近代西洋の合理的自然観とは対照的だろう。
また、西洋の一神教とは異なり、日本人は「八百万の神」として、すべてのものを神としてあがめた。海や川、山はもちろん、大木、岩、動物、日用品など、あらゆるものに神様が宿ると信じてきた。たとえば日本人は、鈴虫が鳴く”声”を聞くと、「秋が来た」と感じる。虫が自分に「話しかけている」と思う感覚があるからだ。つまり日本人は、人間を見るのと同じように自然を見て、感じる心をもっている。こうした自然との同化感覚が、自然の恵みに感謝し、謙虚であろうとする道徳、倫理観にもつながっている。自然と共生する中で、自分と自然を同化させ、”内なる自然”を育んできたのだ。日本に残る歴史的建造物を見れば、そういった”日本人らしい”心を、感じることができるだろう。

2.美意識の多様性
「いき」、「余白」、「不足の美」。日本人の伝統的な美意識は、自然と自分を同化させ、調和を図る独特の自然観が生み出した、「間」の感覚にに影響されている。あるがままの状態の中に美しさや意味を見いだそうとする姿勢は、独特の美を生んだ。
たとえば「日本建築の最高峰」といわれる桂離宮は、皇族の別荘でありながら、権力を誇示するような装飾は見当たらない。風光明媚なこの場所に自然をあるがまま楽しむことこそ”美”であったからだ。
一方で、シンプルとは対極にある装飾的な美も存在している。天下人・徳川家康を祀る日光東照宮の極彩色の陽明門は、その象徴的な一例だ。対立する概念や矛盾を受け入れ、多様な美を形成することも、日本人の感性のなせるわざだろう。

3.無作為の美
日本では、人々が日常で使うごく当たり前のものですら、美しい。その背景には、江戸約300年の平和の時代、上流階級の文化が大衆に浸透した歴史がある。それまで貴族や武士のみが有したいた文化が、平和の中で大衆にも広まった。生活への意識が高まった結果、庶民に向けた「用の美」が生まれたのだ。それは、特権階級だけを対象とした嗜好品とは異なる、日々使う中で磨かれる美しさである。アートや工芸とは区別して、「民藝」と呼ばれる。民藝品は日用品のため、大量生産でき、リーズナブル、かつ高品質。地方色豊かで、ほとんどが作者不詳(匿名)という特徴がある。民藝のつくり手は、芸術的な評価や社会的な地位よりも、「使われる」ことを目指した。だからこそ民藝には、作為的でない、純粋な美が宿っている。

武道
日本人が時計を感覚は、「呼吸」からきている。1秒、2秒と数値化できるものではなく、呼吸の長短で、時間を”感じている”のだ。「阿吽の呼吸」「息が合う」「一息つく」といった呼吸に関する言葉が多いのも、その感覚を表している。日本の武道は、その「呼吸」を基本とする。空間を制圧することが西洋の戦術であるのに対し、日本では呼吸、つまり時間を奪うことで、相手を制す。日本人は、豊かで繊細な時間感覚をもっているのだ。

4.日本人の身体感覚
夏は「チリリン」という風鈴の音で涼をとり、冬は火鉢にじっと手をあて、温まる・・・・。かつての日本人は、外部の環境を変えるよりも、感覚を研ぎ澄ませ、自分の身体のほうを変えてきた。自然の環境を自らの内に”迎え入れる”ことで、自然と共生してきたといえる。
そもそも、日本人にとっての「身体」は、単なる肉体のことではない。「身」は時間のように感覚的なもの、「体」は空間的、物質的に捉えられるものとえるだろう。たとえば、「身重」、「身内」、「身につまされる」とはいうが、「体重」、「体内」は別の意味になるし、「体につまされる」という表現はない。その「身」と「体」を調和させる文化の一つが、武道である。日本の武道は、身体を一つにまとめる動法であり、型の美しさを目指している。敵を倒す技術ではなく、感覚の美の追究なのだ。